自由と居場所

自由でいたいと言う人ほど、居場所にこだわる気がする。

自由を愛する人は孤独を恐れている反面、孤独がとても大切で愛しているのだと思う。

私の考える自由とは1人で広大な海を航海するようなものだ。

そして、自由を好む人は自由である為に束縛を嫌うし、自分の意見があるのではっきりとしている。
そうすると、はじき出されるようにどこか浮いてしまうようなところがどうしてもでてきてしまう。
それが良い、悪いとかではなく。

そうするとどっしりと構えられる場所がどこにもない気がしてきて、ここは私の居場所ではないと一線を自分から置いてしまうのだ。

ここではない、どこか。
自分の居場所とはどこなのかを探し始めるのだ。

私も居場所についてはよく考えた時期があった。
場所やそこにいる人で変わる自分が複数あり、それぞれ自分を使い分けている。
だから、どの自分が自分なのかわからなくなっていってしまった。

でも、自分を使い分けているつもりでも他人からみたら、一緒なのだ。
私でしかない。
器用に生きているつもりでも、その器用さが時に滑稽でしかないということもある。

そうすると、全部、自分で、全部、居場所になる。
他人からみると居場所とはよくその人がいる場所であり、自分からしたら、居場所とはとっておきの場所を示すのだ。

野良猫をみてみると、野良猫はいくつも家がありその家によって猫なりに猫を使い分けているに違いない。
野良猫は気まぐれでしばらくいたかと思うと、ずっとこなくなりそのまま二度と帰ってこなくなったりする。

猫にとって居場所とはなんだろう。

きっと、あってないようなものなのだろう。

野生の動物で考えると、同じ寝床に長期間はいない。
水や寝床を特定されるリスクがあるからだ。

居場所なんてあってないようなものだ。
居場所が欲しいと思う心は、自身の野生が衰えてしまったことなのかもしれない。


野生を飼い慣らすな。
どんな場所でも強くお前でいろ。
どんな場所でもお前の場所であり、場所じゃないのだ。
風向きを感じて進め。