文字が私を救う

人よりも過剰に情報を受け取りがちな自分にたまにとても疲れる。

 

私は職業柄もあるから私の思っている範囲でその場にいる全ての人の状況や様子、席の座った組み合わせの相性、会話のバランス、流れとかあらゆる事が常に気になり、なにも考えていないようでとても気を使ってしまう。

 

元々、人に自分が本当に考えている自分の気持ちを話すのが苦手だし、理解されるのも怖いというかなんか不慣れだ。

結局は自分の好きな人には理解されたいがそうではない人に、わかったような顔をされるのが不愉快な部分も大きい。

 

私は異常な程、神経質で細かい。

 

でも、人にはそういう自分を極力出したくないと常々思っているし、ベースはマイペースだと思う。

ただ穏やかでありたいと願いながら、心の内にはかなり激しい感情がある。

小さい頃から内なる自分の猛烈にヒステリックな部分を抑え込み、意識して生きてきた。

 

人の好き嫌いは激しいけど、組み合わせや話の方向性、お酒が入ってるか否か、その人のその日のコンディションでどんな人でも悪い部分と良い部分のバランスが変わるのを知っているし、

受け取り側の私のコンディションも大きいから人付き合いは長い目でなんでも考えようとしている。

 

あらゆることに対して、その先の行く末を自分なりに感じとりながら、じっくり耐え抜いて自分の道を構築しているが、それの判断は非常に難しい。

最後に勝つ算段で事の現状を話すとすぐに手段を問わず流れも気にせず辞めろと言われる事も多い。

そこの判断は非常に難しい。

 

自分の中では、見切りは早いつもりでいる。

ただ、始まりと終わりがあるように唐突に強制的に終わらせるやり方とはどうなのだろうか。

人の生き様は物語のように整ってもいなく歪なのはよく理解している。

ただその状況の解決法や終わらせ方に自分というものが存在するような気もする。

衝動的な部分もたまにでてくるときもあるが、物事に対して動物的な対処や人間的な対処、仏の域や自分の意思とは関係ない流れもあるが私はなるべくそれを意識の片隅においておきたい。

 

コントロールできないものをコントロールしようとしていて、結局打ちのめされているだけかも。

 

私の周りには強烈なキャラクターの人が多いのでそれになれ過ぎるとミイラ取りがミイラになる。

私はこの世界での常識といわれる無闇に人を傷つけることなく、お互いに気持ちよく不公平な世の中でもそのルールをもってなるべく公平にしようとするおもやりを大切にしている。

我とわがままを勘違いせず、わきまえるところは必要だ。

 

私はTVで他人はリモコンで世界が見ている。

私はその人のみたい番組(私を映し)

、私も同時にリモコンでもある。

 

自分を愛している自分がいて、そこで最大に愛情があるのにそれを他人が超えられるのか。
恋愛とは1:1でなく、2:2だと思う。
自分と自分を愛する自分、相手と相手を愛する相手。
自分を愛する自分と相手が相手を愛する相手が合わないと歩幅がばらつきやがてつまずいてしまう。

 

人とはレイヤーで可視化できない人格がそれぞれあるからそれを探ろうとすること自体が無謀だし疲れるそもそもの原因なのかもな。